昔 引越しの迫ったアパートに
一匹の野良猫が迷い込んできた
もうどんな毛並みかも忘れてしまったけれど
痩せて小柄 まだやっと子猫から大人になったくらい
警戒心が強く 寄ってはこないのだが
庭に魚の骨を置いてやってから いつも玄関のまわりをうろつくようになった
どうせ飼えないし 引越し先も借家だし
情が移らないよう 時々残りものの餌を置いてやるだけだったが
庭から玄関に入りたそうに覗くようになり 玄関で餌を食べるようになった
そうなると可愛い
でも情を移してはお互い不幸
あんなに警戒心が強かったのに いつのまにか触らせるようになり
今度は次第に家の中に入りたさそうにしている
「玄関だけよ！」と心を鬼にして追い払うが すぐまた戻ってくる
ある日 開け放した玄関（夏だった）に座った猫が
家の中で椅子に座っている私をじっと見つめていた
そしてひと足ひと足 確かめるように そろそろと中に入ってきた
何故かすぐ咎めることが出来ず どうするのだろうと見ていると
彼女（メスだった）は私の足元に座り
ひと呼吸おいて私の膝の上にひらりと飛び上がり
真っ直ぐに優しい眼で私の顔を見上げたのだった
慕わしげなその眼は はっきりと深い感謝を顕しているようだった
その時 私は妊娠していて 大きなお腹をしていた
猫に近づきたくないのはそのせいもあったのだ
けれどその眼を見たらもうダメだった
たまらなくなって スイッチが入ったようにゴロゴロと喉を鳴らす猫を
私は長いこと撫でてしまった・・・
それからどうしたかというと
結局引っ越すまでの短い間
「飼ってるんじゃない 遊びにきているだけ」と苦しい言い訳を心の中でしながら
距離を置いているつもりで彼女と暮らした
一度ネズミを獲ってきてくれたことがある
見て見て というように得意気に咥えて入ってきた彼女
悲鳴をあげられて追い出されて さぞかし心外だっただろうな
きっと私へのお土産のつもりだったんだろうから・・・
わざと名前もつけなかった
飼える環境なら どんなに連れていきたかったことだろう
野性味が強いのに 優しくて荒っぽいところが微塵もなかった
毎日どこかへ出かけて行ったが 家にいる時はくつろいで
優雅なポーズで寝そべっていた
猫の美点をすべて備えていたようだった彼女
あんな眼をして私に寄添ってきたのに
応えてやることが出来なかったことが今でも辛い
余計かわいそうなことをしてしまった・・・後悔が今も続く
その後何匹も猫を飼ったけれど
名前もなかった彼女のおぼろげな姿は
今も胸の奥底に 焼きついている気がするのだ
もう遠い昔 初めて過ごした札幌の夏のひとコマ
